国指定の熊山遺跡と丸山古墳がほぼ正確に南北の位置関係にあるということがわかり、さらにこのような類似例があるのではないかと考え、熊山山中の30以上ある石積遺構と熊山南面の吉井川東岸に分布する主な古墳をGPSで緯度経度の測定を進めました。
種類 | 名称 | 緯度 | 経度 |
石積遺構 | 風神山1号(E1) | 北緯 34° 45′ 26″ 00 | 東経 134° 6′ 58″ 86 |
古 墳 | 長尾山古墳 前方部 | 北緯 34° 43′ 5″ 17 | 東経 134° 6′ 58″ 52 |
石積遺構 | 風神山2号(E2) | 北緯 34° 45′ 26″ 10 | 東経 134° 6′ 59 ″61 |
古 墳 | 長尾山古墳 後円部 | 北緯 34° 43′ 4″ 53 | 東経 134° 6′ 59″ 51 |
◇ 長尾山古墳は前方後円墳。石積1号(E1)は前方部と石積2号(E2)は後円部とそれぞれほぼ正確に南北に対応している。
種類 | 名称 | 緯 度 | 経 度 |
石積遺構 |
獅子が谷1号(K1) | 北緯34° 45′ 40″ 30 | 東経134° 8′ 14″ 06 |
古 墳 | 築山古墳 後円部 | 北緯34° 40′ 46″ 26 | 東経134° 8 ′14″ 17 |
石積遺構 | 獅子が谷2号(k2) | 北緯34° 45′ 40 ″56 | 東経134° 8′ 14″ 21 |
古 墳 | 築山古墳 前方部 | 北緯34° 40′ 46 ″42 | 東経134 °8 ′15″ 55 |
◇ 築山古墳は前方後円墳。1号(K1)と後円部がほぼ正確に南北に位置している。
種 類 | 名 称 | 緯 度 | 経 度 |
石積遺構 | 経盛山1号(D1) | 北緯34° 45′ 27″ 74 | 東経134° 6′ 49″ 67 |
石積遺構 | 南山崖3号(C3) | 北緯34° 45′ 12″ 36 | 東経134° 6′ 49″ 45 |
石積遺構 | 南山崖4号(C4) | 北緯34 °45′ 15″ 65 | 東経134° 6′ 49″ 69 |
古 墳 | 土師茶臼山古墳 | 北緯34 °41′ 31″ 67 | 東経134° 6′ 50″ 15 |
古 墳 | 高山古墳 | 北緯34 °42′ 57″ 93 | 東経134° 6′ 49″ 96 |
◇ 二つの古墳と三つの石積遺構がほぼ正確に南北に位置している。
*石積遺構の名称及び( )内の記号は「熊山遺跡 熊山町史跡熊山遺跡緊急調査既報 1974年3月 熊山町文化協
会」によりました。
*測定結果は機器の状態、その他条件により多少の誤差を生じます。
上記測定結果をみると、一番大きな熊山遺跡(A1)と丸山古墳のペアを加えると、5組もの古墳と石積遺構のペアがほぼ正確に南北に対応しているのです。これはどう考えればいいのでしょうか。偶然の一致では無いように思えます。
さらに測定を進めていく中で、登山道権現道コース沿いにある性根岩という断崖を形造っている巨岩の一番高いところを測定してみました。結果は
北緯 34 ° 44 ′ 39 ″ 24 東経 134 ° 6 ′ 59″ 61 でした。
これは経度の一致により、風神山2号(E2)ー 長尾山古墳後円部ライン(上記測定結果1)に連なるものでした。
さらに古墳および石積遺構の経度を参考に探索し測定してみると、多くの古墳・巨石・石積遺構がほぼ正確に南北関係にあることが判明しました。以下にその内の数例を示します。
※ 以下、 石積遺構の『未掲載分』は「熊山遺跡 緊急調査既報 1974年3月」に掲載のな い石積遺構を示す。
※ 以下、巨石または大岩の名称の(仮)は作者が便宜上付けた仮称であることを示す。
また石積遺構についても同様である。
華光寺山古墳(後円部) |
駱駝岩 |
石積遺構 未掲載分 |
北緯 34° 42′ 38″ 97 |
北緯 34° 45′ 9″ 69 |
北緯 34° 45′ 18 ″27 |
東経 134° 6′ 41″10 |
東経 134° 6′ 40″ 91 |
東経 134° 6′ 41″17 |
新庄天神山古墳 | 駱駝岩の東隣接の巨岩 | 石積遺構 未掲載分 |
北緯 34° 42′ 41″55 | 北緯 34° 45′ 9″50 | 北緯 34° 45′ 18″ 30 |
東経 134° 6′ 41″32 | 東経 134° 6′ 41″ 17 | 東経 134° 6′ 41″ 31 |
牛文茶臼山古墳 | 大内山西大岩(仮) |
石積遺構 未掲載分 207鉄塔北東(仮) |
北緯 34° 41′ 38″ 33 | 北緯 34° 44′ 0″ 72 | 北緯 34° 44′ 49″ 66 |
東経 134° 7′ 38″ 34 | 東経 134° 7′ 38″ 43 | 東経 134° 7′ 38″ 66 |
土師茶臼山古墳 | 山崖南大岩西隣大岩(仮) |
石積遺構 南山崖(C3) |
北緯 34° 41′ 31″67 | 北緯 34° 45′ 08″39 | 北緯 34° 45′ 12″36 |
東経 134° 06 ′50″15 |
東経 134° 06′ 49″50 |
東経 134° 06′ 49″45 |
性根岩
尾根上にあり東側はほぼ垂直様の崖になっている巨大な岩である。この岩から南を見ると、邑久平野が一望できる。
熊山の南に築かれた古墳は多いが、これまでの調査結果から、古墳はそれぞれ熊山山中の一つの巨石の真南に造られ、その巨石の真北に石積遺構が造られているケースが多いことが判明した。子午線上に南から古墳ー巨石ー石積が並んで位置しセットになっているのです。ほとんどのケースでお互いが見通せない立地にもかかわらず、驚くほどの正確さで方位が決められていることがわかる。これは吉井川東岸のうちでも熊山の南部にだけ見られる特徴であると考えている。熊山は聖なる山として信仰されてきたことが大きく影響しているのであろう。
これまでの調査から思いついた事をまとめると次のようになる。この地域では弥生時代の後期には熊山で磐座祭祀を行っていた。やがて古墳が築かれるようになると、当の豪族は信仰していた磐座の真南を古墳の築造場所に決めた。太陽は真南にある時に一番高い位置に来るし、光が一番弱くなる冬至に太陽を崇めるといった古代の太陽信仰の影響もあったのかもしれない。そうすることで神の加護が及ぶと考えたのかもしれない。そういう意味で、これまで巨岩、巨石あるいは大岩と呼んでいたものは磐座としてよいのではないかと考えている。
それではなぜ石積遺構は造られたのか。南から古墳、磐座、石積遺構が子午線上に並ぶように造っていることから考えると、古墳の築造位置を決めるための儀式のために造られたのかもしれない。あるいは古墳祭祀に必要なものだったのだろうか。そうであれば、造られた時期は対応する古墳と同時期か少し後ということになる。
しかし、国指定の熊山遺跡(熊山神社境内1号)は奈良時代の仏塔と言われている。築造時代が違いすぎるという疑問が出てくる。この点については次のように考えたい。
当初、熊山山中の石積遺構は熊山の南の丘陵上の古墳築造に関連して造られた。やがて、熊山周辺で仏教が受け入れられるようになると、神聖な石積、あるいは場所との言い伝えや記憶が残っていた一部の石積は、組み直され仏塔に作り変えられた。熊山遺跡(熊山神社境内1号(A1))はその最大のものと考えられる。